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THE DEAD DON'T DIEを10倍楽しく見る方法

*【閲覧注意】ネタバレ全開です

デッド・ドント・ダイ(字幕版)

アホな映画ですね。

日本では「いいね」あるいは「ダメ」の賛否両論分かれた批評ですね。

確かにわかりづらい。

しかし、そもそもそこがジム・ジャームッシュ監督の芸風なのかもしれません。

教室でわちゃわちゃ騒ぐクラスメートたちに混ざらず、一人静かに読書をしているようなオフビートなスタイルで、「スター・◯ォーズ」みたいな大衆受け作品なんか作らないさ、と独自性をアピールしていくインディーズな作風を持ち味とするジム・ジャームッシュ監督ならではの独特な世界観。

でもそこには現代社会をするどく描き出すリアル感が確かに存在するのです。

映像的にホラーそのものだが、ガッツリとコメディである。

なぜなら監督がそう言ってるから。

そうやって監督のインタビューを確認しないといけないほど、コメディ感が細か過ぎて伝わらないのも、この映画をわかりづらくしてる一因かと思う。

日本とアメリカでは笑いの形態が違う

アメリカはボケに対して必ずツッコミを入れる漫才のような文化はないようだ。

ティルダ・スィントン(以下ティルティル)がUFOで飛んでったあとに、ビル・マーレイあたりが「なんでやねーん!」の一言でもあればTOHOシネマズに笑いが起こったかもしれない。 「その日本刀で、るろうに剣心ばりにゾンビをやっつけないのか〜い」や「UFOからゾンビにビーム出さんか〜い!」などの補足ツッコミがあればさらに笑いが続いたかもしれない。

日本人にとってみればココはツッコミ不在の完全に「放置プレイ」である。 放置プレイという名のジョークであるとは認識しつつも、その前のもったいぶった前振りからしてティルティルがいかにも勇者っぽいので、てっきりゾンビ集団を日本刀でバッサバッサいってくれるのかと期待させるだけにいきなりスコーンと銀河の彼方へ旅立ってしまうのはあまりにもあっけなさすぎる。若干滑り気味感もある。

アメリカ人ならばここは笑い飛ばしていくところなのかなぁと想像するばかりである。

いっぽう、日米のギャグが共通するところは、いわゆる「てんどん芸」である。

お笑い用語としての「てんどん」とは同じギャグやボケを二度、三度と繰り返して笑いをとる手法のことを指す。

ダイナーの遺体を見て第一発見者や警察官たちが「野生動物にやられた」を3回同じように繰り返す。

ちょこっと補足
「てんどん」芸に関しては、ノア・バームバック監督の「マリッジ・ストーリー」(去年のアカデミー賞にノミネートされた作品)でも見られる。
ノア・バームバックはジム・ジャームッシュの作風に影響を受けているニューヨーク・インディーズの監督として知られている。

そして、アダム・ドライバー扮するピーターソン巡査が「ゾンビのせいだと思います」と、いきなり正解の結論に辿り着くのがオチとなって笑いを演出している。

「ゾンビのせい」なのは、観客もCMやポスターをみてわかっているので、ギャグを使って結論までのプロセスを省いている。そうすることで映画のテンポを良くしている。 コメディの奇才・福田雄一監督の作品や松本人志のコント等にも見られる。

キャストはジム・ジャームッシュ感謝祭

ウルトラマンとか仮面ライダーが勢揃いするやつと同じです。 登場キャラクターがみんなジム監督のお気に入りです。 中には何度も監督の作品に出てきている人もいます。 しかも数々の賞にノミネートされたり賞をとったりしたすごい人たちばかりです。 一人一人に関しては私が別記事でコメントしてますのでよかったらこちらをご一読下さい。 (めんどくさかったらすっ飛ばして良いです)

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読んでいただけるとわかると思うが、キャストは俳優兼ミュージシャンという方が多いように思われる。 それは監督自身が映画監督であると同時にミュージシャンであることも影響していると思われる。 この映画のBGMは監督が参加するSQÜRLが手掛けていることからも伺えるように、監督の音楽に対するこだわりを感じられる。 SQÜRLのかもしだす単調で寒々とした雰囲気は、作品のオフビート感(普通とはズレたリズム)をそのまま演出しているような一風変わった音楽である。

ジム・ジャームッシュ監督がお気に入りの俳優を何度も使うのは、日本の福田雄一監督のそれと似ているように感じる。気に入った役者を何度も使うのは、毎度キャスティングに悩まずに作品の中身に没頭出来ることや、監督の作風を熟知した馴染みの役者たちへの安心感もあるのだろう。

アダムのスターウォーズ小ネタ集

・ナタのスイングが上手い

ナタを振り回してゾンビをぶった切っていくさまは、もう一目瞭然、スターウォーズのカイロレンである。アメリカンポリスは普通ピストルで応酬するはずだけど、あえてナタを使ってるとこがミソ。

ナタ=ライトセーバーにほかならない。 劇中ビル・マーレイが「ナタのスイングが上手いね」とスターウォーズネタを誘うようなセリフを入れるが、それに対してアダムが

「昔、マイナーリーグでやってたことがあって…」

などど、アメリカならではの野球ネタでボケ返しをしている。

ここで、「ファーストオーダーでいっぱいやってたじゃん!」とツッコミ返したいところだが、ボケに対して必ずツッコミという文化はアメリカには無いようなので仕方がない。それに許可的に無理。

・スターデストロイヤーのキーチェーン

これ買いました私(写真)↓

スターデストロイヤーのキーチェーン
輸入品らしく、Amazonでも数日かかって届きました。 数に限りあるみたいなので欲しい人はお早めに。

思ったよりちっちゃいです。 これと同等のものをアダムが持っていて、それを観たティルティルが「スターウォーズね。良い作品ね」とツッコミしてます。 とうとうここで「スターウォーズ」言っちゃいましたが、大丈夫、アダムがプロデューサーのキャスリーン・ケネディに電話して許可とってます。

・「まずい結末になる」

アダムが劇中で、「まずい結末になる」って何度も言ってる。 もうこれは、スターウォーズおなじみのセリフ、

「I have a bad feeling about this」 (悪い予感がする)

このセリフのオマージュですよね。 スカイウォーカー家の人あるいはそれにまつわる人がよく使うのだが、一番使うのはハン・ソロである。 スターウォーズでハン・ソロの息子カイロレンを演じたアダムに言わせるとこが憎い演出。

なぜ、まずい結末なのか?の答えには、「台本を読んだ」という『第4の壁』を越えたギャグで説明している。 台本を読んでいたから、ダイナーの遺体が「ゾンビにやられた」と答えられたことの説明にもなるね。

第4の壁とは、舞台と客席をわける一線のこと。(中略)想像上の透明な壁であり、フィクションである演劇内の世界と観客のいる現実世界との境界を表す概念である。 (Wikipediaより)

映画のスクリーンと観客との間にはフィクションとリアルを分ける見えない壁がある。それを『第4の壁』という。それを越えてしまう荒技が時々使われることがある。 舞台上の役者が、ふいに観客席の方へ話しかけたり、今回のようにキャラが壁を越えて飛び出し、作者から台本を読ませてもらうなどの荒技である。ある種のナンセンスなギャグである。

この作品では他にも映画の主題歌をキャラクターたちに「主題歌であると認識させて」パトカーのオーディオで聞いたりする場面がある。 これも一種の『第4の壁』を打ち破るシーンである。

スターウォーズのような商業主義の万人受け映画とは背を向けたインディーズの巨匠と言われるジム・ジャームッシュのハズなのにあえてスターウォーズネタをこれでもかとぶっ込んでくる。 よっぽど監督はアダムが好きとみえる。

DDDは闇堕ちしたパターソン

今回ね、これが私が一番言いたかったことね!

DDD(この映画の略称ね)はパターソンぽいんですよ。 まるでパターソンという作品自体がダークサイドに堕ちてしまったかのようなのが、DDDなんですよ。 以下何故かの根拠。

・オタク店でのやりとり

オタク店長の店に配達に来た宅配業者が、詩的な格言をつぶやいたり、オタク店長と腕と腕をぶつけて挨拶したりする様はパターソンとメソッドマンがコインランドリーで交わしたやりとりを彷彿とさせる。

宅配業者役のRZAとメソッドマンは同じヒップホップグループ「ウータン・クラン」のメンバーである、というところもDDDとパターソンの点と点が線で繋がっている。

・横スクロール→縦スクロール

ジム・ジャームッシュの映画的手法の中に「ロードムービー」という一面があるらしい。 主人公がふらふら、トボトボと道を歩き、道中で起こるさまざまな出来事が物語となっている、映画のジャンルである。

パターソンはカメラを台車に乗せて平行移動して被写体を追っていくドリーショットと呼ばれる撮影方法によって、歩くアダムが常に画面の定位置にあり、背景が横移動していくように見える。 まるで「スーパーマリオ」のスクロール画面のようだ!

それに対して、DDDは縦スクロールの動きだ。 主人公警察官パーティがゾンビと対峙するときの映像は、まさに「バイオハザード」のゲーム画面のような、縦に奥行きのある空間を前に後ろに進んでいく。

縦と横の違いこそあれ、主人公のいる画面がスクロールしていくところがDDDとパターソンの繋がり(以下同文)。

・パターソン→ピーターソン

主人公の一人は言うまでもなくピーターソン巡査そしてそれはアダム・ドライバー。 パターソンの主人公はアダム・ドライバー。

アダム

パターソンの製作中に、同じことをする人だけどすごく嫌な奴「ピーターソン」を撮影するべきだっていつもジョークを言ってたんだよ。 子供の詩を読んで「くそポエムだ!」って地面に投げつけるような最低な男さ。それが今度の仕事にも生かされたね。

アダムはインタビューでこう応えている。 ピーターソンは、パターソンがダークサイドに堕ちたらこうなる…という発想から生まれたもののように感じる。

アダムのインタビュー他については興味があったらこちらもご覧ください。

limeclover.hatenablog.com

パターソンさんは淡々と日常を紡いでいくが、ピーターソンは淡々とゾンビを虐殺していく。

パターソンさんは妻ローラといちゃいちゃ楽しく幸せに暮らしていくが、ピーターソンは同僚女性のクロエさんとは何の関係もなく(ティルティルが確認)バッドエンドで残念な最期を遂げている。

ちなみに、DDDとパターソンがひっくり返ったような関係になっていることは、ジム監督が意識したかどうかに関係なく、いろいろな根拠から私が勝手に何となくそう思ったまでである。

盛大なバッドエンド

「動きがのろく、人肉を求めて人を襲う、かまれるとゾンビになる」という、1968年に公開されたジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が確立したお約束をベースに、 生前執着していたものをゾンビになりながら彷徨い求めていく部分がジム監督によって加味されている。

死してなお、好きだったものを追い求めていく様は、ゾンビのごとくおぞましい、ホラーのようだというジム監督の痛烈な皮肉が込められている。

タイトルのように「死んでも死なない」ゾンビが、醜悪な姿態をさらして物欲の限り執念深く追い求める姿は、実は私たち生きている人間が日ごろ物欲にまみれ、それによって思考停止しているかのようなありさまを描いているのだ。

「THE DEAD DON'T DIE」は、意訳すると「この死に損ないたちめ!」であって、死者ではなく生者への怒りのメッセージなのかもしれない。

ロメロ監督のラストは保安官がゾンビを駆逐するが、DDDでは駆逐しようとした警察官たちもゾンビの餌食になって終わる。 ジム監督は警察官(悪いヤツをやっつけるヒーロー)がゾンビを退治する結末を許さない。

頼みの警察官たちでさえ殺されて(おそらくゾンビになって)、ディストピアのような悪夢で終わるのは日本の時代劇「大菩薩峠」で仲代達矢扮する侍が「むかつく」という理由だけでバッサッバッサと人を斬り殺していくところから着想を得た。

「大菩薩峠」の何もかも殺してしまう映像を見て、その頃禁煙による禁断症状に悩まされていた監督の心が浄化されたというが、この映画も全てゾンビになってしまうことで、ある種の浄化作用を狙っているのかもしれない。

セレーナゴメス含む、遊びにきていた都会っ子の3人はゾンビにやられてしまったが、更生施設にいた子供3人は逃げたっきりゾンビ化したシーンが無く、世捨て人のトム・ウエイツもゾンビ化したシーンは無い。 この人たちは監督の放置プレイになってはいるが、死んだシーンが無いから生きている可能性はある。 アダムもインタビューで「トム・ウエイツは生き延びるよきっと。」と適当なことを言っていた(笑)。

私は、とにかく監督はゾンビ化したとしかいえないような現実世界の生きた者たち(つまり私たち)に対して、「おまえらなんかみんなゾンビなんだ〜!バカやろ〜!」と怒りと憤りと、もしかしたら深い悲しみをぶちまけているだけのような気がしてならない。

ジム監督は撮影中に、レクリエーションか、動きの練習かよくわからないが、ゾンビキャストたちに「太極拳」をやらせていた。

ジム監督は大学時代に中国人教授に師事していたこともあり、東洋文化に造詣が深いところがたびたび伺える。 パターソンでは日本人キャスト永瀬正敏が登場して主人公の深い悲しみを救った。

物欲に対して深い嫌悪感を覚えるのも、ジム監督なりの仏教思想に感化された心情を垣間みることが出来よう。

あの盛大なバッドエンドは、ジム監督のやるせない思いが素直に吐露された叫びだったのかもしれない。

この映画は2018年つまり2年も前に撮影され、2019年の昨年にアメリカで公開された作品だが、コロナウイルスのパンデミックが始まって日本にもその影響が出始めた頃に日本で公開されることとなった。 ゾンビ化とウイルスパンデミックは似たようなものであるといわれているが、まさに皮肉なことにタイムリーな映画となってしまった。 キャストたちが「ジムの映画はいつもタイムリーなんだよ」と去年語っていたが、まさに現実にそうなった。