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ライムがあらわれた☆

ライムはイオグランテをとなえた!しかし、MPがたりない!

父が亡くなった前後のこと

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2017年7月14日。

母「お父さん、亡くなった」

仕事の帰り、自宅で息子と話していた時に電話で知らされた。

知らされた瞬間、電撃で打たれたような衝撃。

と、同時に「ホッとした」相反するような気持ち。

すぐに自転車に乗って、20分かかる実家への道のりを急いだ。

自室のベットで寝ていた父親。

今年の2月に病院から退院し、以後は自宅で療養していた。

抗ガン剤も放射線治療も効かなくなった末期がん患者は、最後のその時まで痛みを和らげる処置を行ういわゆる「緩和ケア」の状態になる。

緩和ケアでお世話になっている看護士さんが最後の処置をしていてくれた。

看護士さんが父に聴診器を充てた。

「心臓が止まっちゃってますね。」

現実感が無かった。悪夢を見ているようだった。

「私に何か出来ることはありますか?」

看護士さん「では、タオルで顔を拭いてあげて下さい」

清潔な殺菌処理したタオルで父親の顔を丁寧に拭いた。 (これは死後に遺体を清める『湯灌(ゆかん)』という行為らしい)

眼の周りをふいた時に、眼孔が沈むような動きがあったため、怖くなって手が止まった。

かなり眼を強く押したため、普通なら「痛い!」などの反応があろうが、

父は、何も言わず、何も反応せず、ただただ眠っているだけだった。

顔の皮膚の色が、黄色かった。

おでこをさわったら、氷のように冷たかった。

医師が到着して、最終的な死亡診断をした。

「残念ながらお亡くなりになってます。。。」

全く、現実味が無かった。

家族「いったい、どうすれば。。。。」

医師「葬儀屋さんを呼んで下さい」

家族全員頭が真っ白だった。

先月末の6月30日に父が言っていたことを思い出す。

父「自分の葬儀は、○○葬儀屋に頼んでくれ」

私はその時「そんなこと言うな」と拒絶したものだった。

今となってはその言葉が大事だった。

以後、父の言葉と、父の残したエンディングノートに従って葬儀を行った。

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父は、亡くなる前月、つまり6月に入ってからテーブルで一人黙々とノートを綴っていた。

何を書いているかは見せてもらわなかったので、死後ノートを初めて読むことになった。

そこには、家族へのメッセージと自分の葬儀についての詳細な指示が書きつらねてあった。

母は、辛くて読めないというので私と弟が交互に読み、指示を実行していった。

父が死んで頭が真っ白になっていた家族にとっては、この父のノートがとても助けになった。

当時は、父のノートの内容の実行完遂に集中していたためあまり気がつかなかったが、

父は6月の時点で、自分の死を予見していたということになる。

自分の死を見つめながら、自分の葬儀やあとのことを考えて綴るという思いはどれだけのものだったろう。

かなり残酷な時間である。

6月の父は、テーブルに座り、食事やノート執筆などが出来てはいたが、

首と肩の間に大きなこぶが出来ていた。

痛みなどはそれほど無いということだったが、それが「がん」のかたまりだった。

父はそれを知っていた。

そしてそれを手術で取り除けないことも知っていた。

その6月中旬の時点の日付で

「生きる望みも無いし、死ぬ怖さも無い」

と綴られていた。

絶望を通り越した、悟りに近い、虚無感のような心境だったろうか。

自分が同じ立場だったら、、、あまり正気を保てないような気がする。

6月の父に何度か会いにいったが、頭もハッキリしていてノートを書く以外はいたって平常の動きをしていた。食が細いなというイメージはあったが。

だから私もあまり病状を気にしなかった。

だから、死の直後看護士さんが

「お父様は、立派な方でした。もっと痛いとか苦しいとかおっしゃってくださればよかったのに」

その時、霧が晴れたように父の気持ちがわかってきた。

本当は痛くて、苦しかったのだ。

それを家族に見せまいとして必死に隠していたのだ。

だからノートに気持ちを綴ったのだろう。

父の気持ちは死後初めてわかった。

生きているうちにわかってあげられなかった、そんな自分を悔いた。

父の死ぬ前の時間がゆっくり思い出される。

6月26日 父に会いにいった。 テーブルに座って、たしかジュースを飲んでいた。 私が昼ご飯をパクパク食べてるのを恨めしそうに見てた。 「首のこぶ、痛い?」と聞くと。 父「うん。。少しね。それよりお腹の中の方が鈍く痛い。。。」

お腹…今思えば肝臓のがんが広がったか、摘出した膀胱と前立腺の跡地が痛んだか。。。

6月30日 父と電話で話す。 葬儀の事、檀家になっているお寺さんのお坊さんを丁寧にもてなすようにと指示。 見舞いに来た親友に対する文句。 「葬儀の事、大丈夫だよ」と伝えると、 父「お前は何もわかっていない!」となぜか大激怒。 父「なぜもっと気遣ってくれないのか」と怒りだす。 こちらから反論すると、逆ギレして電話を一方的に切られた。

このあと、父のあまりの変貌ぶりにショックと悲しみで嗚咽したのを覚えている。

見舞いに来てくれた親友のおじさんにも相談した。 親友のおじさんは「死期が近づいて混乱しているのだろう。こちらがガマンするしか無いよ」 と言ってくれた。

この時の父の言葉

「お前は何もわかっていない」

は生涯トラウマになりそうだ。

そして本当に何もわかっていなかったんだと、今なら受け入れられる。 父親の気持ちを本当にわかっていなかった。 さぞ痛く、苦しかったろう。

もっともっと生きていたかったろう。

それを全然わかってあげられなかった。

その事がいまだに悔やまれてならない。

7月7日(死の一週間前) 夕方、ベットに寝そべりながら話す。 葬儀の事。 父「お前たち(私と弟)のことは心配していない。 お母さんの事が心配だ。だから葬儀をきちんとやってくれ。 お母さんはこれから一人でここで生きていかねばならない。 近所の人の支えが必要だ。だからちゃんと葬儀をして近所の人の信頼を得るように。」 父「昔の事が、鮮明に脳裏に焼き付くんだ。。。」

とにかく、葬儀をちゃんとするように懇願していた。 そのことで、母が不自由なく生きていけると熱く語っていた。

それから昔の思い出が、あとからあとからあふれて止まらないようなことを言っていた。

そんな父の思いは、当時あまり受け止めてあげられなかった。 ただただ困惑した私がいた。 「そんな悲しい事言って欲しくない」というのが心情だった。

父の死があと一週間後に迫っているという危機感が、あの時は私には無かった。

おなじく7月7日(最後の会話) 父「気持ち悪くなって来たから、もう寝るね」

そういって、静かに眼を閉じた。 ベット越しに、

「お父さん!また来るね!」

と言って帰路に立ったが、父は聞こえていたようないないような。。。。

それが私との最後の会話だった。

今思えば、

長年の親友に対して、いろいろ文句を言っていたのは、

自分が死んでしまうのに、親友は若々しく健康で家族と楽しそうに生活している様子を聞いて羨ましくて、

悔しかったんじゃないかと。

葬儀の事をあれほど細かく指示していたのは、「お母さんのため」などど言っていたが実は「自分のため」だったのだろうなと。

迫り来る「死」がとても恐ろしいものだったろう。 それを少しでも和らげようと、必死になって自分が入る墓があるお寺のことや、自分のために経を唱えるお坊さんを意識する事によって、

まだ見ぬ極楽浄土へ、魂の救いを求めていたのではないかと思われる。

それをまったく理解しようとしていなかった娘に対して

「お前は何もわかっていない」「なぜ気遣ってくれない」

と絶望的な気持ちになっていたのかもしれない。

どうして、わかってあげられなかったのか。

私が、「がん」という病気を理解していなかったせいだ。

あれから、父のエンディングノートに綴られた病状の経過を読んだり、ネットでいろいろ「がん」について調べていくうち、

「がん」という病気がどういうもので、どうやって死んでいくかをやっと知った。

本当にわかっていなかった。

最後に、父と父の気持ちに寄り添うように付き添ってあげられなかったことを、

本当に、本当に、心から悔やむ。

心からの反省と後悔が、やがて8月の悪夢…なぞの後頭神経痛に悩まされる日々が到来する。

他にも、胸部に痛みが発し、「自分が乳がんでは?」という恐怖と闘う事になる。

それはまたの機会に綴ってみたいと思う。