3月11日、っていう日付はすっかりトラウマになってしまいました。
今日が誕生日、結婚記念日などおめでたい記念日の方には申し訳ないのかも知れませんが。
3年前の14時46分は、子供達は学校の集団下校で少し早めに帰って来ていて、私は子供達にお菓子や飲み物を出して自分は二階の息子の部屋を片付けしていました。
息子の部屋の本棚がやけにカタカタカタカタ鳴るなぁと。
変だな?と思った時には地面が揺れ出していました。
速攻階下へ下がり、子供達に「地震だ〜〜〜っ」と言った時にはかなり揺れて子供達が叫び声を上げていました。
「テーブルの下へ隠れてっ!」
子供達が下へ行ったのを確認し、まず一階の窓を開けました。
これは先日勤め先の学校で地震があった時に上司が「まず部屋の窓ないしはドアを開けて外へ脱出出来るようにしなさい」と言った教えを実行したものです。
この地震は3月9日にありました。
今考えるとこの地震は11日の余震だったんじゃないでしょうか。
大地震などがあると、家屋が揺れで歪んで、部屋のドアや窓が開かなくなることがあるそうです。そうなると家屋倒壊などのときに脱出口が無くて逃げられないのです。
それを防ぐためにあらかじめ窓やドアを開けます。
窓を開けると、目の前に自分の車が置いてあります。
その車が横にユラユラユラユラ、揺れています。
倒れるんじゃないか!と思いました。
車越しに前の家を見るとガタガタ音がしました。
それは電信柱と電信柱の間にあるいくつもの電線が横に揺れている音でした。
あまりにも電線が横に揺れるので、今にどれか切れてしまうんじゃないかと思いました。
ガタガタと揺れる音以外は街は静かでした。
車も電車もなにもかも止まってしまったように思いました。
あちこちの家から人が出て来ました。
「仙台の方で震度7らしい」
と誰かが言いました。
「今度デカイのが来たらみんなで逃げよう」
「どこに行く?」
「小学校?」
「(子供を連れては)遠過ぎる」
「公園?」
「あの目の前の電信柱が倒れるかもしれないね」
「家の中にいたら逆に危ないかな」
「携帯が全く通じない」
「川が決壊したらどうしよう」
遠くで区役所の放送が聴こえる。
オドロオドロしい警戒音とともに異常事態を知らせる音声が流れてました。
あわあわしているところへ、小学校の男の先生が自転車で見回りに来てくれました。
「大丈夫だよ」
その先生の一言と先生の存在がみんなを安心させました。
私も涙が出そうで、先生の顔を見て少しだけ安心しました。
家に戻るとまな板がシンクに落っこちていて、コーヒーの瓶も落ちてました。
子供達は泣きそうで不安な顔をしてましたが、それ以外は家は無事でした。
ガスを点けようとしたら点きませんでした。
ガス漏れかと思いあわてて隣近所に確認しに回りました。
あとで調べたら震度5強以上になると自動的にガスが止まる仕組みになっていることがわかりました。マニュアルを見て自分でガスを復帰させました。
東京は震度5強でした。
夕飯の支度をしようと近所のスーパーに行ったら店員さんが何人か入り口に立っていて「今日は店じまいです」と両手を顔の前で×にしていました。
コンビニに行ったらおにぎりもパンも全部無くなってました。
その夜は自宅で寝ましたが、どうやって夕食を食べたのか記憶にありません。
その夜、パパは帰って来ませんでした。
*****
あの時のことを思うと今でも恐ろしいです。
3年前のただの記憶ではなく、今も続く悪夢のようです。
あの時から、生き方に少しずつ変化があったように思います。
「生きるためにはどうするか」
ということをそれまでよりも考えるようになったと思います。
1人では生きていけない。
周りの人と支えあって生きてるんだな、と実感しました。
今日の14時46分には黙祷したいと思います。